●地に足のつかないことの切実さ


初回なので、それぞれのエピソードを短く、細かく、見せていく段階。
まだ全体像はまったく見えないが、『ありふれた奇跡』の放映が始まった。


加瀬亮ファンの同僚によると、加瀬氏は朝からものすごい量の稼働をこなし、フジテレビ系の番宣番組に出まくって(出されまくって)いるらしい。
ま、映画のキャンペーンだって似たようなものだから、そこは割り切ってやるのだろうけれど、なかなか大変なことである。


それはそれとして、肝腎のドラマ本篇。
大きな川の河原、そのバックに架かる鉄橋、そこを渡る私鉄電車、その電車が滑り込む東京の郊外の駅と、どこか既視感のある、山田ドラマでは馴染みの風景がつづく。
そのなかで、大きくて重いギアが長いクランクシャフトのおかげでスムースに回るように、ドラマが動き始めた。


乱暴なたとえをするなら、ストーリーがメロディだとすると、場面場面の会話はリズムだ。
これがまた効いている。
仲間由紀恵加瀬亮が初めて会ってからの、一進一退というか、三歩進んで二歩下がるみたいなぎこちない会話の手探り感がいい。
加瀬亮と祖父の井川比佐志、プラス付け足しみたいな父親、風間杜夫で構成される職人一家の、遠慮がないようにみえて必ずしもそうではないやりとりもいい−−「おまえなんで笑う」「爺ちゃんが笑えって言ったんだろ」「笑えと言われれば笑うのか。面白いこともないのに笑うのか」「そんな。からまないでよ」。
陣内孝則塩見三省のやりとり−−「そんなわかりのいい話じゃないけど」「そりゃそうだろう。でもだからって話さずにいたらもっとわからない」。
この辺はもう、山田太一節とでもいおうか。
氏が繰り出す会話劇のファンなら、たまらないところである。


そういう安心のブランド的な部分はそれとしてありがたく愉しませていただくとして、別の部分で気がついたことがある。
氏が新しい方法論を試そうとしているように私には思えたのである。


たとえば「省略」の多用。


シーンが変わると、普通の劇の感覚より時間が多めに経過している気がした。
話の展開がほんの数段、跳んでいることが多かった。
けれどディティールは非常に細かく描きこんである。
細部をうがつセリフ、会話には事欠かない。
だから全体としては話の展開はスローなのだが、なかで流れている時間の密度は濃いという効果が現れる(ような気がする)。


省略技法を、ストーリーの展開を促すために使うのではなく、一歩一歩立ち止まるべきところでしっかり立ち止まるために(他を端折るために)使っているとでもいおうか。
そのせいで、劇中の時間の流れ方が、新鮮というか不思議なものになっている。
出てくる人も土地も、どこかリアリティが薄くなっている。
人物の存在感はあるのに、それがリアルに直結しない。
主な舞台になっている街、八千代緑が丘駅の周辺の新興住宅地も、どこかストレンジな印象を受ける。
血も肉も目方もある人間が、みんな3センチくらい浮かんで物を喰ったり喋ったりしている、そんな感じとでもいうか。
安心できそうなのは、左官の親方くらいで、あとは皆、浮かんでる人たち。
この浮かんでる感じに、山田氏は現代性をにじませようと腐心しているのではないか。


ある意味、なんだかまるごと『異人たちとの夏』の世界みたいで、それはイコール、死の匂いでもある。
これはちょっと凄い。


……と、いきなり小理屈を並べてしまったが、これは興奮している証拠である。
期待にたがわず、どえらい作品が始まったなということへの自分なりの対しかたである。


仲間・加瀬の恋愛劇としても、行く末どうなることやら見逃せないが、劇として、それぞれの家族が抱えている謎にも大いに引っ張られる。
いまの段階では特に仲間由紀恵の家が、体裁は整っているようでいて全員どこかおかしい、という匂いが濃厚。
毎週、リアルタイムで見ることを誓う。