●「ほんとうにそうかな」


ありふれた奇跡』、録画を見直して、再度唸る日々。
明後日の第2回が待たれるわけだが、初回を終えて、周りの友人たちと話すに、やはり仲間由紀恵への風当たりが相当きつい。
演技について疑問符を投げかけるひとが多い。
私は『TRICK』以来のファンなので(といっても『ごくせん』は除く。ケータイのCMも除く。え、じゃあ、『TRICK』が好きなだけなのでは?)、一応、擁護の論陣を張るべしと思い、考えてみた。


すぐに思い当たるのは、山田太一脚本の特異さ。
山田氏の脚本、ことに科白まわしは、かなり風変わりではある。
初期の内村南原がよくネタにしていたように、確かに普通、ひとはあんな風な会話はしない。
でもそれでいい。
なぜって、あの科白は、一種の音楽なのだ。
ポピュラーミュージックを、自然な鼻歌みたいなものじゃないから、といって否定するひとはあまりいないだろう。
作家は、メロディーとリズムを考え、ハーモニーやコード感を加味して曲を作り上げていく。
きっかけはふと口ずさんだものであっても、最後までそうというわけじゃない。
山田太一のドラマも同様である。
あの科白のリズムはとても緻密、かつ周到に練られているものだ。
それを、普段自分たちが喋るのと違うといって否定するのはどうかと思う。


だから、アーティフィシャル、人工的な会話だということには私も同意するけれど、それにしたって、それもそのはずなのである。
山田太一は、ひとが「そのままでいい」とは思っていないのだから。
「自分自身をちょっと嫌いなひとがいい、あるがままの自分なんてものじゃ物足りなくて、もうちょっとマシな存在に近づきたいとあがいてる、そういうひとが好きだ」ということをどこかで話していた。


だから山田ドラマに出てくる主だったひとは、みなどこか「このままでいいのかな」という問題提起を内に孕んで会話に臨む。


「そうかな」
「そうさ」
「ほんとうにそうかな」
「なにがいいたい?」
「人間て、ほんとうにそういうものかな」
「そうさ。そういうものさ」
「そういうのをいやだって思う人間がいてもいいんじゃないかな」
「そりゃ、いたっていいさ。いたっていいけど」
「そういう人間がいるのって、そんなにヘンかな」
「ーー」
「そんな風に割り切れない人間だっているってこと、そんなに我慢のならないことなのかな」


これはいま私が勝手に作った山田太一風の会話だけれど、山田ドラマの主人公たちは皆、どこかこういう問いかけを身に秘めている。


ふぞろいの林檎たち』の中井貴一は、学歴が高くないと人間性まで軽んじられるのって正しいのかな、と問うた。
男たちの旅路』の鶴田浩二は、「汚ければ信じるのか。汚ければ人間らしいと思うのか。すこしでもキレイだと疑うのか」と問うた。
『想い出づくり。』の古手川祐子と田中裕子と森昌子は、「二十歳を少し過ぎたら女はお嫁に行くのが当然」って思われてるけど、ほんとうにそうかな、と問うた。
『沿線地図』の広岡瞬は、いい高校を出ていい大学を出ていい会社に入ることが幸せだっていわれてるけど、ほんとうにそうかな、と問うた。


それらの問いは、発せられてから二十数年を経ても基本的には有効である(だって、どのひとつにしたって、きちんと答えられないでしょ。そもそも答えの出る問題でもないから)。
問いつづけ、答えようとしつづけることがもっとも肝要である、と、そういう種類の問いなのだ。
ただ、問い自体は古びなくとも、そんな問い(と答え)なしでも生きていける、そういう環境が整ったというだけのことだ。


この十年余りのあいだ、山田さんが連続ドラマを書かなくなっていたのは、世のなかで「あるがままの自分」を礼賛する風潮が高まったことと無縁ではない。


基本的に女性というのは、現状肯定型の性だと思う。
ほんとうはどうとか、そんなこと四の五の言ったって仕方ないもの。そんなことより、今日のご飯。
そう思っているひとのほうが多いと思うし、それは至極健全なことだとは思う。


だから、『ふぞろい−−』における手塚理美石原真理子高橋ひとみにせよ、『沿線地図』における真行寺君枝にせよ、『想い出づくり。』の3人の娘にせよ、みな、最初の行動はやや突飛に映る。
事情が明らかになるにつれ違和感は軽減するが、それにしても、「普通、人間はそんなことはしないものだ」という目で見られれば、不自然としかいいようのない行動を取る。それは否めない。
だが、「普通はしないことに踏み出す」人間が登場することこそが、山田ドラマの真骨頂なのである。


いまはまだ、仲間由紀恵演じるところの「中城加奈」は普通のひとである。普通のOLである。
その彼女が、奇をてらってではなく、いかに普通に「普通でない」ところを見せるか。それは期待して見ていいと思う。


たぶん、私には仲間由紀恵の科白まわしの不自然さも自動的に補正して聞いているところがあるのだろう。
松竹時代につちかわれたものか、山田ドラマにはヒロイン然としたヒロインが出てくることも多い。
そしてまた、そのヒロインを微妙に崩していくところに妙技は冴える。


岸辺のアルバム』の八千草薫然り、『早春スケッチブック』の岩下志麻然り、『沿線地図』の岸恵子然り。
どの方も、演技力に劣るというのではないが、それよりも人間離れした美しさや女優としての華といった存在感のほうが勝つ方々である。
加えるなら、その時点ですでに名だたるキャリアを誇っていた方々である。
だが、いずれもそれまでのイメージとは違う役柄に挑戦し、結果として役者としても作品としても成功を収めた。
そういう思いがあるので、「山田太一の新作は仲間由紀恵が主演」と聞いてもまったく平気、というかむしろ、期待したのである。


そう考えると、むしろ加瀬亮の科白まわしの良さこそが驚異的なのだということに気付く。
彼が、「もともと山田太一さんのエッセイのファンだった」と話しているインタビューを読んだ。
なるほど、山田マインドをずっと吸収していたのかと思うとうなずけるところもある。


まあ、私がなんだかんだと述べ立てるよりも、それこそ山田太一のエッセイを読んだほうがよく伝わると思う。
たとえば『いつもの雑踏 いつもの場所で』の冒頭に収められている「K子さん」という7ページほどの一篇。
ほんとうにそうかな、という疑問符の投げ掛けが、ここにも意外な形で現れる。
興味があれば、ぜひご一読を。
全篇通して、これまで疑ってもみなかったことがジャンプし、これまた意外な形で着地する。
その思弁の豊かさに驚かされること、請け合いである。


いつもの雑踏いつもの場所で (新潮文庫)