●ずれた地面と厚みのない時間


あれから14年経つという。
そりゃ言われてみれば、あのとき私はまだ20代だった。
そのくらいの年月が経っていても全然不思議じゃない。
けれども主観的にはなんだか、そう、まだ3,4年しか過ぎていないような気もする。


1995年当時、私は東京で暮らしていた。
バイク便の仕事で糊口をしのいでいたのだが、地震が起こった日の昼間、本部から指示を受けた。
コンビニチェーンの弁当を配送するため、京都に行けという。
そういう依頼があったのだ。
もともと関西の出である。
実家や友人たちの消息も気になる。
1月17日の午後、世田谷を出て陸路を伝い、15時間後、翌日の未明に京都に着いた。
それから毎日、のんびりした京都の郊外の道を走り、弁当を運んだ。
宿に帰ると連日、被災した神戸や淡路島の様子をテレビが映し出している。
イライラモヤモヤとした1週間が過ぎ、弁当を運ぶ仕事は終わった。
しばらくの休みを申し出て、実家のある大阪を経由して、神戸に向かった。
1月24日のことだ。


尼崎を通り、西宮を過ぎ、芦屋を超え、神戸の市内に入った。
国道43号線の上で、のたうちまわる恐竜のように身をよじり、阪神高速の高架が陥落していた。
その様を見たとき、もうそれ以上西に向かう意味は、自分にはないような気がした。
もう充分だ、ここで出来ることをしなきゃいかん。


そんな気がして、いちばん近くにあった小学校に行って手伝いを申し出た。
東灘区の本山第三小学校。
それから1週間、そこで寝泊まりさせてもらいながら、食事の炊き出しや生活物資を配る手伝いをした。
そのときの手伝い仲間には、たくさんの高校生がいた。中学生もいた。
皆、どの大人より真面目に、しっかりと働いていた。
生きることに飽いたような様子は微塵もなかった。
非常時という雰囲気がそうさせたのかもしれない。
それでも大人のなかには、もう疲れてしまってやりきれない、そんな空気を漂わせているひとが少なくなかった。
そう考えると、十五、六歳の彼ら・彼女らの、背筋が伸びた様子は心強かった。
だからよく覚えている。


いまの職場の同僚には、あのときその年頃だった人間がけっこういる。
震災のとき17で、いま32。
皆、やっぱりよく働く。
あのときの、学校の校庭のテント村で会った子たちみたいに。


やはり、あれから十何年過ぎたとは思えない。
なんというか、あのあたりから、世の中はずっと足踏みを繰り返しているだけみたいな気もする。
失われた10年」だとか「ロストジェネレーション」だとかいうけれど、そういうことでもないのだ。
あいだが抜けているというのでもないし、年月が蒸発したというのでもない。
しいていうなら、十何年という時間がカラーボックスの合板みたいに圧縮されてまるで厚みを失っている、そんな感じがいちばん近いだろうか。
活断層と一緒に、時間の位相もずれてしまったのかもしれない。


  *  *  *


今日の番組のエンディングには、HEATWAVEの「満月の夕」をかけた。
ソウルフラワーユニオンの唄ももちろんいいのだけれど、山口洋が歌うこのバージョンが私はとても好きだ。


蒼白く冷たい月が、オリオンと同じ空にいて、ただ地面を照らしている。
その光の下で、人間は人間の営みに汲々としている。
そんなイメージが湧いてきて、なぜか私は勇気を得る。




1995  LONG LONG WAY-1990-2001-