●竈の神様を悼む


20代の初めに、ラジオ屋稼業に足を踏み入れた頃からの先輩ディレクターが亡くなった。


家の、たとえば台所の守り神みたいなひとだった。
ほんとうの竈神、いわゆる荒神はもっと猛々しい神様らしいがそうではなく、なんというか、ルックスもあわせて、周りに幸福感をもたらすひとだった。


同時に、進取の気質に富んだひとだった。
新しいもの、オモロげなものが好きで、そういうものに大層鼻が利いた。


開局当初の番組の名前−−「MUSIC GUMBO」や「BINTANG GARDEN」−−は、いずれもあのひとの命名と聞く。
まだイカ天に出たばかりの頃のFLYING KIDSを「これな、ごっつかっこええんや」と褒めちぎり、「我想うゆえに我あり」を聴かせてくれたりもした。
センスがいい。
だから新しい局を立ち上げるときに重用された。
大阪のつぎは福岡、そして名古屋と。


そうやって新しい環境に身を置くほうがご本人の気性にも合っていたのだろうとは思う。
だが、もしFMラジオが、新しくはなくても普遍的な魅力を持ったメディアとして再生を図るのであれば、きっとまたふたたび、どこにだって必要になるはずの人物だった。


どこかよその既存のチャートをなぞっただけの選曲や、売り手の側の都合だけで出来上がった音楽では飽き足らないーーそんなものばかりじゃ冷え性になっちまうーーメディアに、「熱」を持ち込むことのできたひとだった。
その熱の原動力は、ひとつにはとてつもない音楽好きだったこと、そしてひとつにはミーハー精神にあったと思う。
そう、優れて良質なミーハー精神の持ち主だった。正しいミーハーは、営利にさほど左右されない。
清く正しく、それなりに美しく、けれど度外れて温かなミーハー魂の持ち主。
それが、富田雅夫というひとだった。


印象に残っていることをひとつ、ふたつ挙げる。


あのひとのADに就いていた頃、アルバム『N°17』の頃の小泉今日子嬢の取材に同行したことがある。
20年前のことである。彼女にもまだアイドルの印象が残っていて(ま、終生アイドルなひとだが)、芸能寄りの音楽と距離を置くことで差別化を図ろうとしていた局の方針と抵触する懸念があった。
だが、富田さんは、やんわりとそれを突破した。
持ち前のミーハー精神はさまざまな障壁を打ち破るのだなと当時は感心するばかりだったが、たぶんそれだけではなかっただろう。
あのひとならではの敢闘精神がそこにはあったのだと思う。
芸能とかロックとかどうでもええやないかそんなもん、エエ音楽に変わりがあるか。
そういう気構えを内に秘めていたひとだった。


もうひとつ、ずいぶん早くに言われたことがある。
ラジオのスタッフとは、どういう職業なのかという話の一端である。

「ライブには向こうから招待してもらえる、レコードもサンプルを山ほど渡される、新しい音源をどこより早く聞かせてもらえる。
こんなん、音楽好きなやつにとったら極楽や。
けどな、ということはな、ひっくり返して考えたらや、オレらは、言葉は悪いけど麻薬漬けにされてるようなもんや。
好きなもんをこれでもか、て与えられるわけやから」

だからどうしたらいいか、というような訓辞ではなかったと思う。
ただ、そういう立場、環境にあるということを認識しとけというようなことだったと思う。
気をつけておかないといつだって依存症への道まっしぐらなんだ、ということ。
いろんなことがちゃんと見えていたひとなのだ。


仕事の上のことに限っても、まだまだやりたいことがあったはずだし、やってもらいたいこともあった。
あまりに早すぎる。
それとも、健全なミーハー精神の発露すら拒むような世知辛い状況には、そろそろうんざりだっただろうか。
いや、あのひとならきっとなにかしらオモロいことを見つけてたはず。


功利とは離れたところで、音楽に熱を注ぎ続ける。
そういうひとが必要なのだ。
しかしあのひとの熱に、我々は報うことができたか。俺は応えられているか。
自問は尽きない。


いたずら好きのカマドの神様がいなくなったことの欠落の大きさに気づくのは、これからなのだと思う。


合掌。




24日夜...