●いくたびも壁と卵の話


昨日の朝日新聞に「アラブのハルキ・ムラカミ論」という記事が載っていた。
村上春樹エルサレム・スピーチについて疑問を投げかける意見である。

その場にいた私も感銘を受けた。しかし、何か、もやもやが残った。あえてイスラエルに来て、文学的表現で批判する日本の作家。それを受け止めるイスラエル人。知的な緊張と交歓。
   *  *  *
そこに紛争の一方の当事者であるパレスチナ人、アラブ人は不在である。


 −−「アラブのハルキ・ムラカミ論」(カイロ 平田篤央)より抜粋


やはり、と思う。
ここで示されているのは、「村上春樹がしたことは正しいふるまいだったか」「村上春樹は正しいことをするべきだった」という、例の論調である。
だから、「正しい/正しくない」じゃないんだってば、とまたしても思う。


たとえば、国際会議の場であれば、パレスチナ側も同席していることはあるだろう。
そういう場でのスピーチであれば良かった、正しかった、すっきりした、とでもいうのだろうか。


国連で、数知れない会合や会議を重ねること(それ自体を無意味だというつもりはない)をいくら繰り返してもたどり着けない地平というものがあると思う。
たとえばひとりの小説家が個人として乗り込むのなら、−−正しい/正しくないは別として−−その地平に立つことがかろうじてできるかもしれない。
できないかもしれないが、少なくとも小説家に可能なのは、そういうことだろう。さしあたって、そういうことしかないだろう。
そのように村上春樹は決意したのだと思う。
それを、「正しい/正しくない」「すべきだった/すべきでなかった」という地点ばかりから批判しようというのは、どう考えてもずれているのではないか。
「辞退/ボイコットという形で反対姿勢を示すべきだった」という意見の裏には「文学になど何もできないのだから、せめて態度で示すべき」という含意がセットになっているように思える。
サルトルの「飢えた子供を前にして文学になにができるか」という問いを誠実に考えつづけるのは別にかまわない。
けれどそれをもって、「だから『文学的表現』でなく『政治的行為』にして示せ」と迫るのはすでに恫喝の一種だ。
それじゃあ、「壁」の言い分になっちまってるぜ。と、私などは思うのである。


ある種、やりきれない気分でいたら、夕刊にはこんな記事が載った。


村上春樹さんがエルサレムに行った理由 誌上で告白


そうかと思い、今日、早速、文藝春秋を買って読む。


「僕はなぜエルサレムに行ったのか」村上春樹(インタビューと受賞スピーチ)


エルサレム賞の授与を最初に打診されたときのこと。
受けるべきか迷ったこと。
暮れにガザ空爆が始まり、迷いがさらに深まったこと。
現地に行き、実際にスピーチをしたときのこと。
目の前で聴いていたシモン・ペレス大統領が示した反応。
エルサレム市長バラカット氏の反応。
エルサレムやテルアビブを歩いてみて受けた印象。
亡き父の戦争体験について。
オウム真理教事件について。
今回のスピーチについての、特にネット上での反応から感じたこと。
「純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす」正論原理主義への危惧について。


こういった内容が端的に語られている。
あのスピーチの意味を自分の頭で考えていきたいなら読んでおいたほうがいい。
充実したインタビューである。