●備忘日録:『ありふれた奇跡』最終話

※ 以下、セリフの抜粋あり。
「これから録画を観るのだ」「DVDになってから改めて観るのだ」と思っておられる方は避けられたほうがよいかもしれません。


昨夜、しまなみから帰ってきて、取るものもとりあえず観た『ありふれた奇跡』の最終回。


前回(第10回)のラストから、もう山田太一ワザは炸裂していて。
最後のシークエンスで赤ん坊が出てきたくだりには、やはり息を呑むほかなく。
あれ、最後の母親がショッピングモールを駆け抜けて走り去っていくところ。
『ふぞろい--』だったら間違いなく、「エーーー、リーーーーー」と桑田佳祐絶唱が重ねられてる場面である。


実際、『ふぞろいの林檎たち』PART1の最終回ひとつ前の回もそうだった。
仲手川酒店に突然、ヘルメットに覆面姿の過激派とおぼしき学生が現れたところで、最終話へと引き継がれたのだった。


それにしても『ありふれた奇跡』。
すごかった。素晴らしいエンディングだった。
山田ドラマの最終回は、いろんなエピソードが束ねられつつ、しかしなにかに決着をつけるというようなことはなく、それでもなにか階段をひとつだけ上がるような、そんな感覚があふれているものが多い。
成功したドラマはそういう終わり方が出来ているともいえるが。


で、最終回のなかの、いくつもあったベストシークエンスのうちのひとつで、私がとりわけ持って行かれたシーン。
その素晴らしさを反芻し、称えるために、敬意を込めて耳コピ採録

それまで面識のなかった、加奈の母・中城桂(戸田恵子)が、翔太の母・安藤律子(キムラ緑子)に会いに来た。
律子が暮らしている木造アパートの2階である。


律子「(ドアを開けて)あ、待たしてごめんなさいね」
桂 「いえ」
律子「どうぞ」
桂 「(中に入って)突然、すみません」
律子「散らかっててあんまりだから。ちょっとね(と衣類をかけたりしている)」
桂 「おじゃまします」
律子「どうぞ、ここ。ここ坐って(座布団をすべらせる)」
桂 「(坐って)はじめまして」
律子「は。そういうのいいの。座布団敷いて。いま、お茶淹れるわ」
桂 「おかまいなく」
律子「お茶だけ。お湯沸かしてから(と台所へ)」
桂 「娘が、翔太さんと一緒になりたいと言いだしまして」
律子「綺麗な娘さんだってね」
桂 「いえ」
律子「もったいないようだって、おとうちゃん言ってたわ(薬罐に水を入れている)」
桂 「そんな」
律子「おうちもいいようだし、翔太じゃ災難みたいなもんね(薬罐をコンロ台に載せる)」
桂 「いいえ」
律子「(布巾を手にして部屋の入り口に立つ)子供できない娘だって」
桂 「そんなことまで……」
律子「それがなあに?(部屋に入ってくる)翔太なんかで手を打たないで(布巾で卓袱台を拭く)大きな顔して、金持ちのどら息子見つけたほうがいいんじゃない?」
桂 「はい」
律子「『はい』、だって。(笑い声を上げて)むっとした?」
桂 「ちょっと」
律子「いいとこのひとはね、怒らせないと、挨拶ばっかりしてるから(また台所に立つ)」
桂 「人に頼んで、調べるようなことはしたくなくて」
  夫が翔太の身辺を調査したことが頭にある。
律子「(布巾を置くと、すぐ戻ってくる)どうぞぉ、調べて」
桂 「いえ」
律子「(鼻をすする)たしかにあたし、翔太の母親だけど、とっくに田崎のうちは出てるの(腰を下ろす)」
桂 「はい」
律子「翔太のことでなんか言う気はないの。そちらさんともつきあわない。心配しないで」
桂 「でもいま、翔太さんのお父さんと(非難する口調ではない)」
律子「(笑って)ここで。一緒にね」
桂 「はい」
律子「ハチャメチャに生きようと思って、飛び出したんだけど、気がつくと元亭主と暮らしてるの」
桂 「そう」
律子「これもちょっとハチャメチャね。はは」
  ううん、と首を振る桂。
律子「(桂を見て)どう? ダンナと上手くいってる?」
桂 「はあ?」
律子「そんなこと、訊いちゃいけない?」
桂 「(ゆっくりと頷いてから、小声で)うん」
律子「いけないの?」
桂 「(さらにかすかに)うん」
律子「そうなの」
  律子、そうなんだぁ、ややこしい、というような顔をして仕方なさそうに立ち上がる。
  台所に行くその後ろ姿に、
桂 「しあわせ?」
  立ち止まる律子。
桂 「(律子を見上げて)そんなこと、訊いちゃいけない?」
律子「気が強いんだ(少し感心した風)」
桂 「ふふ。(微笑して)そう(律子から目を外し、顔を下ろす)」
  桂を見下ろし、へえ、という顔をしながら、
律子「しあわせとか、そんなことばっかりで生きてないもの」
桂 「うん」
  桂、まっすぐ前を見ている。
律子「ほっといてよ」
桂 「こっちも」
  桂、前を見ている。
  その姿に律子、くすりと笑って台所へ。
  一瞬あって、桂もくすりと笑う。


見事というほかない。
まず、「いいとこのひとはね、怒らせないと、挨拶ばっかりしてるから」という律子のセリフが、いい。
たしかに、そこまでの桂は挨拶ばかりしているのだ。
落ち着かず、動きながら喋る律子と、ほとんど返事だけで反応する桂の対比が見事。
これは演出と、ふたりの役者の功労も大きいだろう。


そしてその桂が、感情を微妙に表すくだりを受けて発せられる、律子の名ゼリフ。


「しあわせとか、そんなことばっかりで生きてないもの」


すごい。脳髄と心臓を同時に直撃された。
もうね、JポップだJラップだJロックだのひとたちとかさ、幸せとか優しさとか愛とか、母に感謝とか友達が大事とか、明日はきっと上手くいくとか涙の数だけ強くなれるとか言ってるひとたちは、いっぺん、腹の底までこのセリフを滲み込ませないと駄目なんじゃないか。
あるいは駄目なのは、そういうのを平気で享受してる俺らのほうか。
多幸症の残骸みたいなもんをいまだに引きずってる、80年代以降の連中はみんな引導渡されたようなもんだ。
「幸せ至上主義」というイデオローグだかドグマだかを、山田太一は本気で揺さぶっている。
こういう仕事に年齢は関係ないのだ。
といいたくなったが、考えてみれば、ずっとそういう仕事をしてこられた方である。


話は戻って、『ありふれた奇跡』。
つづいてのシーン。
神戸幸作(松重豊)が、北海道から家族を呼んで同居することを許してもらえないかと相談したときの祖父・田崎四郎(井川比佐志)の応答も、深い含蓄のあるやりとりだった。
作劇上、意外性に富んでいて驚かされるばかりではない。
リアリティある狭量さがしっかりと描かれていて、一個の人間を形成する暗部というものにも目配りが利いている。


そのやりとりを知った翔太が、夜、帰宅して四郎に意見する場面があって、ひとり考える四郎がいて、最後の、全員が喫茶室に集うシークエンスになる。


第10話と、この最終話の前半で少々株を下げていた四郎だが、最後にものすごく格好よく締めてくれる。

演説の後段。


四郎「いや……その……、だから、ね」
桂 「はい」
四郎「これは、こちらには、前に話したことだけど」
静江「なにを?」
四郎「ああ、私は東京大空襲で、家族も親戚も、全部亡くして。11歳から、ひとりでね」
桂 「そうですか」
四郎「ニッポンがどん底の時代に、どん底の子供だった」
桂 「ええ」
四郎「だから……だからね、どうしても人間てもんは、つめたくていんちきでけちで、うらぎりで自分が大事で、気を許せないっていうように思えてね」
朋也「はい」
四郎「表には出さないけど、その常識で、間違いはないと、思ってきた」
桂 「はい」
四郎「助け合おうとか、善意とか聞くと、なにいってやがる、いざとなればなんでも見つけて逃げだすくせに、なんて思っちまう」
朋也「はい」
四郎「しかし、それは……どん底の常識でね」
桂 「はい」
四郎「いまは、どん底じゃない。(目がすぼまる)どん底だなんて言う人がいるが……どん底は、こんなもんじゃない」
静江「ええ」
四郎「どん底じゃない時代に、どん底の用心で生きちゃいけないよね(肩の力、やや抜けて微笑)」
朋也「苦労なさったんですね」
四郎「いえ。子供のころの思いは、なかなか抜けなくてね」
静江「はい」
四郎「あぶなっかしいじゃないか、やめとけなんてことを言いたくなっちまう」
桂 「はい」
四郎「強気の翔太見てね、用心なんてつまらない」
  聴き入る翔太。
四郎「人を好きになれば乗り越えられるんだってねえ」
静江「そう」
四郎「へっへっへ。だんだんにね、そう思えて(笑顔)」
重夫「ロマンチック」
四郎「(少々むっとして)そんなことは百も承知だ」
  身を乗り出し、敢えて言う、という口調になって。
四郎「それでも俺は、用心なんかするなと言いたい」
  聴き入っている翔太。
四郎「心配の種なんかいくらでもある。数えるなと言いたい。乗り越えられる、と」
  皆を見まわす四郎。
四郎「以上」


井川比佐志の名演説「どん底はこんなもんじゃない」。
オバマにも負けてない。
鶴田浩二が演じた吉岡指令補(@『男たちの旅路』)を彷彿とさせるところもある。


2009年に、山田ドラマの新作を存分に愉しむことができたことに、大いなる感謝を。
シナリオの出版も待ちたい。