●備忘日録:FMに何を込めるか


おとつい、3/20の夜、NHKで放映していたテレビ番組「FMに愛を込めて」。
録画していたものを、今日、日曜の午後になって観た。


コメンテイターとして出演していた萩原健太氏とジョン・カビラ氏の言葉が興味深かった。
いくつか拾っておく。

送る側になって感じたFMの魅力は?

萩原健太  たっぷり曲がかけられるということ。

 日本では聴きたい曲がラジオでかからないので、海外に行ったときは中古盤屋でレコードを探すことが多かった。初めてニューヨークに行ったとき、ラジオのWCBS(オールディーズ局)をかけたら(さっきまでレコード屋をまわって)苦労して手に入れた、欲しかった音源が全部かかってる。
 だから、決められた曲をかけるとかそういうんじゃなくて、いつも、あらゆる音楽がかかってる環境であってほしいなと思うし、そういう気持ちで曲をかけるようになりました。AMよりはそういうこと許してくれる場合が多かったし。
 なるべく幅広くいろんな曲にスポットを当てるメディアとしては最高だな、というのが、送る側に立って思ったこと。

当時、4誌合計の部数が100万部を超えたFM雑誌。その特色だった「番組表の存在」について。

萩原健太  昔は便利だと思っていたけれど、送る側に立ってからは嫌いになりました(選曲が縛られるので)。

ある曲がヒットするのにFM局が力になる場合について。

萩原健太  ラジオには1950年代から、収賄……ペイオーラ事件などがあった。

(曲をかけてくれるように、と)レコード会社がお金を払っていて(それを受け取った)DJが、その罪で業界を追われるとか。
 とにかく昔っからラジオとか……ま、メディアはみんなそうだけれど……大きな、なんか、その……。

ジョン・カビラ  アメリカの話ですよね。

−−つまり、たくさん回数かけたらヒットするという構図があるっていう?

萩原健太  (オンエア回数とヒットを結びつけて捉える側面があることは)切り離せないと思いますよ。

 日本の放送にかぎっていうと、放送局が音楽出版社を持っていたりするので、自分が管理している曲をいっぱいかけようじゃないか、というような決定になったり。いろいろそういう、なんともいえない部分が、大人な部分が覆っている。
 ただ、そういうなか……いろんな人たちの陰謀が渦巻くなかを、間隙を縫って、細かくまわって、いろんな人の心をつかんで、ふっと(表舞台に)出てくるアーティストがいる。
 やっぱり、FMのコアなリスナーはその辺を聞き分ける。「この曲は、このDJがかけたくてかけているのか、そうじゃないのか?」……見えちゃいますよね。そういうのはみんな聞き分けちゃうので、そういう(耳のいいリスナーの)中から、いいヒット曲が生まれてくるっていうことはあると思いますよ。

FMラジオの現状について。

萩原健太  最近、ミュージシャンがやっている番組も多くて、なかには(自分の曲ではなく)他の音楽をたくさん紹介するのに適した方っていうのもいると思う。

(けれども)ただ、やっぱり人気のあるアーティストが喋ることが多くなると、ちょっと幅が狭くなっている。紹介される音楽の幅が狭くなっちゃったり、あるいはお喋りが中心になっちゃったりして。
 いまお笑いブームってことがあって、今度はお笑いの人たちが担当するようになると、さらに(音楽の)割合が減ってきてしまう。そういうものが人気があることも現実だと思うんですけど。
もちろん(他の音楽をたくさん紹介するというのは)DJが担当しなくちゃいけないことなんだけど……。
 やっぱりFMっていう場は僕たちに音楽の……ほんとに扉を開いてくれたものでもあるので、もっともっと、いい音楽がたっぷり聴くことができるメディアとして、これからもずっとあってほしい。
 特に大きな放送局は、そういう方向で行っていただいて、で、小さなコミュニティFMとかが、もっともっと身近な情報みたいなものを提供する。両方でそういうものを提供してくれればいいなあと思ったりしますけどね。

ジョン・カビラ  “Mr. ミュージック”とか“Ms. ミュージック”という言い方がある。

 男性でも女性でも、この人の番組を聴くとなにか発見がある(という存在がそれ)。で、必ず誠実なスタンスが後ろにあって(番組が)進められているっていうことがわかる。そういう息遣いがほしい。
 いちリスナーとして僕が聴きたい番組はそういう番組ですよね。


もう一組、某邦楽ベテランアーティストをゲストに迎えていて、その方々のスタジオライブを計5曲もはさむ構成には、正直閉口した。
うち2曲が往年の洋楽ヒットではあったものの、FMがどうというハナシとはほとんど関係がない。
まあ、そういう要素でも組み込まないと稟議を通らなかったのかな、などと邪推すると、ラジオ−−特に、AMと違って「語りの魅力」でアピールしているわけではないFMラジオ−−に対する一般的評価の低さを感じて、やや暗澹としないでもない。
司会役のアナウンサーも、いまいちピントの合っていない方が起用されていた。
ただ、そんななかで萩原氏とカビラ氏は、上に抜粋したように、本質的なコメントをしようとしていたように感じた。


他メディアがラジオを取り上げた例でいえば、先日のBRUTUSのラジオ特集号も売れ行きは良かったらしい。
BRUTUS (ブルータス) 2009年 3/1号 [雑誌]
たしかに梅田の某書店のバックナンバーのコーナーをみても、売り切れてしまったのか、この号だけ見あたらなかった。
私には薄い内容と感じられたこの特集でもそうなのだ(実際、私も買ったわけだし)。
4月から始まったNHKの朝ドラ『つばさ』も、埼玉・川越のコミュニティラジオ局が主な舞台のひとつになっている。


経済状況の悪化や、インターネットの台頭による広告モデルの崩壊などで、既成メディア全般が逆風にさらされるなか、早くから「木炭メディア」などといわれてきたラジオに、懐旧感も含め、微弱な脚光が当たっているのかもしれない。
こういうときに、他ならぬラジオが、「そうなんですよ、ラジオっていいもんなんですよ」と自己申告しているだけでは駄目だろう。
「いいもの」かどうかは、あくまで享受する側が判断することだから。


肝要なのは、気になったひとが聞いてみたときに「なるほど、たしかにこれには意外な面白さがある」と感じる内容の番組を作り続けておくこと。
気になるひとを増やすには、他のメディアがやっていないこと、できないことを、後追いでなくやること。
その際、ラジオにしかできない形でやる方法を模索すること。
まずはそういうことをやり続けておくしかない。
一見(一聴)、邪魔にならないBGM的な、いわゆるFM的トークだわと思えるようなハナシにしたって、数分のなかにひとこと、頭に残る言葉を紛れ込ませること。
当たり障りのないトークや選曲をしている暇や余裕や猶予はないのだ。