●20周年に思うこと。その1


FM802が開局20年を迎えた。


雑誌や新聞に、いくつか記事も出ている。
私もそのうちのひとつ、某紙の取材を受けた。
一応、開局(直前)から2年足らずのあいだ、ADとしてうろちょろしていたという前歴があるので声がかかった次第。
(そのあと私はこの仕事を一度辞めている。再びこの局に出入りするようになったのは98年の秋から)


草創期の802で画期的だったところはなにかと訊かれたので、「“FUNKY”というキーワードを掲げたこと」を挙げた。
“FUNKY”という言葉自体が優れていたというわけではない。
若者向けの音楽ステーションを志向するラジオ局が身にまとうイメージとして、これが「イケてるのかどうか」は評価の分かれるところかもしれない(開局の頃、「FUNKYって……それ、ちょっともっちゃりしすぎてへんかぁ?」という意見は少なくなかった)。
さしあたって意味はどうでもよかった。
この言葉そのものではなく、そういう具合に「捉え方がひとによって異なる概念」を掲げたところが優れていたのだと思う。


局から提示された、この“FUNKY”という概念を前に、当時のスタッフたちは首をひねった。
なにがFUNKYで、なにがFUNKYでないのか。
いったいどうすればFUNKYたりうるのか。
答えはすぐには出なかった(いまも出ていないと思う)。
それだけ曖昧な概念だった。
だから、いつまでもあーだこーだと試行錯誤を繰り返すことができた。
概念は余所から借りてきてものだったかもしれないが、サイズや色を試す作業を経て、自分の身に釣り合うものに変えていくことができた。
そこへ自分をすり合わせていくこともできた。
少しずつ自分のものにすることができた(よくいえばその作業は、どこか日本国憲法をめぐる右往左往を想起させる。自分のものに出来ているかどうかは別にして)。


これが、もしもっと厳密な、数ミリの誤差も許さずに思考や行動を限定するような概念だったら、そこに創造の生まれる余地はなかっただろう。


たとえばCHRという概念を対置してみる。
CHR(Contemporary Hit Radio)というのは、アメリカのラジオ局で使われているフォーマット(局が自らを規定するジャンル、性格付け)のひとつである。


やや業界的な用語なので対外的に語られることは少ないが、FM802を位置づけるもうひとつのタームでもある。
802はCHRステーションも標榜している(少なくとも一時期はそうだった。いまも、たぶんそうだと思う)。


FUNKYが理念だとしたら、CHRの方はより実利的なカテゴライズといえるだろう。
1970年代後半から80年代の初めにかけてアメリカで提唱され実践されていったフォーマットで、要はチャートの上位にのぼってくる曲を中心にかける、流行りの−−いにしえの単語でいえば“ナウな”−−選曲をする局ということである。
ただし、これにも留保が必要だ。
なぜなら−−これはあくまで私見だが−−、CHRというのは「全米Top40」という権威をもつチャートがあって初めて成り立つ発想という部分がなきにしもあらずだからである。
チャートはマーケットの集合体、もしくは結晶体みたいなものである。
それを後ろ盾になされた選曲が、またチャートの生成に寄与していく。
マーケットが、自分の肉で我が身を贖っているようなものだ。
遠からずウロボロス的な円環に囚われていくことは想像に難くない*1


さらにいえば、北米のように、小規模のラジオ局がそれぞれ得意とする専門的な分野をもっているような環境でこそ成立するものでもある。
専門(special)があるから、一般(general)がある。
あるいは、generalがあるからspecialがある。
どちらが先でもいいけれど、「普通」だけで「前衛」のない世界は息が詰まる。発展がない。先細るだけだ。
少なくとも芸術表現においてはそうだろう。たとえそれが大衆向けのものであっても。


CHRという発想が広まった背景には、AOR隆盛の余韻や、ラジオに馴染まない(と思われた)パンク/ニューウェイヴ・シーンへの反動という面もあったように思う。そういう意味では保守的な概念なのである。


このCHRとFUNKYとのバランスが、黎明期の802では、ややFUNKY寄りに振れながら上手く保たれていたのだと思う。
そのバランスが、“J-POP”という経済圏の発見と伸長によって以前ほどは機能しなくなった。90年代を通じて、そういう事態がゆるやかに進行していったのではないかと思う。


いま、“FUNKY”という言葉に何らかのちからがあるだろうかと、ときどき考える。
シンボルとして扱われる以外に、この言葉が謳われる意味がどこかにあるだろうか。
しまうまの“縞”以上の存在理由があるだろうか。


確認の意味と、若干の苦みを込めて考える。
「ラジオのちから」について考えるというのは、私にとってはそういうことなので。

*1:まあ、そういう退行的な循環は、ポップ・ミュージックの世界では宿痾のようなものだいうこともできる。そこに、ときおり予測不可能な変異体が現れる。ビートルズのような、ボブ・ディランのような、ピストルズのような、プリンスのような。そうやって自己を更新していくのがポップの身上だともいえるのだが。