●平和と愛とセンチメンタルで何が悪い?


映画『レスラー』の公開が先週末から始まった。
この映画を、うすら呆けた評論家が「甘ったれすぎ!ディティールは◎。」*1と評していた。
まったくなに言ってるんだか。
本質を見る目のないひとが、中途半端なメモ書き垂れ流してちゃいけないよ。


この映画をどう観るかというのは、こと人生観に関わってくる話である(それくらいの話/ストーリーである)。
だから「受け付けない」「認められない」というんだったらそれでもいい。
しかし「気に入らないが、ディティールは褒める」というのは、なんなんだ。
まったく小狡いやり口じゃないか。
この映画に対する、もっとも卑怯な対し方だぜ。
それともなにかい。
「映画的演出の妙を見る目」を自分が持ってるってことだけは強調しておきたかったってことかい。


   *  *  *


なんだか気分が悪いなあと思っていたところに、「相対性理論」特集のSTUDIO VOICE 7月号。


STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2009年 07月号 [雑誌]


スタジオボイスって、特集の目の付け所は秀逸なんだけど実際に読んでみると肩すかしなことが多い。
ここ15年くらい、ずっとそんな風な印象がある。
なんか、「炭、火ばさみでいじってみました。や、酸素足りないかなと思って。それだけっす。火熾そうとかそういうの、別にないっす」みたいな、スタイリッシュなエクスキューズというか、“届かなさ/届いてなさ”具合にがっかりしてしまうことが多かった。
なのでこれもまあどうせ、と思いつつ、付録の「やくしまるえつこの朗読CD」だけでも手に入れる価値はあるかと思い、ひさしぶりに買ってみたのだった。
したらば!
……この時点で相対性理論にここまで迫るのは敢闘賞ものではあるのだけれど、やっぱり消化不良気味はいなめなかった。*2


と、それはともかくとして、本題はこれである。
そのスタジオボイスに載っていた、ある映画評が唸るほど素晴らしかったのだ。


「うしなうこと ダーレン・アロノフスキー『レスラー』」という一文。
書き手は、木村満里子さん。


前段では、復活したミッキー・ロークの俳優としての可能性に触れ、ついで、相手役を演じたマリッサ・トメイの母性的な側面と、娘役のエヴァン・レイチェル・ウッドに言及し、このメインキャラクター3人の演技バトルという見どころに、まず焦点を当てる。
「しかし、この映画はそれだけではない」と説き起こされる中段からがすごい。

俳優ばかりが取り沙汰され、アカデミー賞をはじめアメリカ国内では作品賞にノミネートすらされない場合が多い


この作品のオフィシャルサイトのトップページをみれば、「全世界の映画賞54冠に輝いた今年最高のヒューマンドラマ」という惹句が目に入ると思う。
だがたしかに、ほとんど主演男優賞か助演女優賞ばかりなのである。
作品賞を得ているのは、ヴェネチア国際映画祭(金獅子賞)、インディペンデント・スピリット賞など数えるばかりである。


この映画が作品賞部門にノミネートされることが少ないのはなぜか?

 作品が劣っているわけではなく、内容があまりにアメリカ的価値観から離れているからだ。

そうなのである。
この映画のなかで、ミッキー・ローク演じるレスラー、ランディ“ザ・ラム”ロビンソンが、たとえばロッキー・バルボアのような変貌(劇的な逆転勝利、あるいはたとえ敗れても愛する家族に恵まれるといったような大いなる自己実現)を達成するかというと、それはむつかしい。
いわゆる“アメリカン・ドリーム”とは、ついに無縁である。そう言ってしまっていいと思う。

 いまやchangeが国民の合言葉になっているアメリカで、この作品は、人はそうそう変われない、という描き方がされているのである。

しかも、そうであっても、彼は別に惨めなわけではないのだ。


映画の宣伝上、「かつて栄華をきわめたレスラーが、いまは落ちぶれて……しかし」的な紹介が多かったり、そういう評論に終止している場合が多いかもしれないけれど、それはあまりに紋切り型な解釈というものだ。
この作品を真摯に受け止めるなら、その手の「栄光と影」寄りの表現が正確でないことがわかるだろう。

主人公は飲んだくれて暴力を振るうダメ親父ではない。レスリング最優先の生活で家庭が壊れ、売れなくなっても廃業しないため貧乏になり、平日はアルバイトをしながら週末にレスラーの仕事を続けている。

かつてのスター・レスラーがスーパーで働くハメになっているというのに、彼の様子には惨めさのカケラもない。真面目に仕事をこなし、誰にでも礼儀正しく接するナイスガイなのである。それは彼がスターの座から転げ落ちた負け犬ではなく、いまも現役のレスラーであり続ける誇りのなせる業だろう。


ここでいわれている“レスラー”を、つい“ロックバンド”や“シンガー”と読み替えてみたい誘惑に駆られるが、それは我慢することにする。
さて、ではその“誇りを持ったナイスガイ”が、ナイスでなくなってゆくのは、いったいなにゆえなのか。
そこに迫っていく後段が、また優れて良い。


勝てなかったからといってひとはナイスでなくなるのではない。
単に負けただけのことで、ひとは惨めになったりはしない。
ヒット曲を出せないからといって、ロックバンドは惨めになったりはしない。
ステージに立つことができるなら、マットに上がることができるなら、ひとは誇り高く生きることができるはずなのだ。


勝つことがそれだけでひとを豊かにするわけではないし、負けることがそれだけでひとをスポイルするのではない。
「勝ち」と「負け」という座標軸だけでは計れないレベルというものがある。
地平線の向こうにあるから見えないだけで、そういうものはちゃんと存在しているのだ。

勝つことが重要なアメリカで、負け組の話は逆転復活劇としてしか描かれない。
しかしこの映画は勝ち負けでは語られない。
失ったものはそうそう取り戻せず、人生そうそうやり直しがきかないという事実から目をそむけない。

そうやって、この映画が内に秘めている価値観について触れたあと、この評は、なぜあのエンディングがかくも俺の心を撃つのか、それを言葉にしてくれている。
その言葉は、直にこの文章に触れて読んでみてほしい。映画も観てほしい。


『レスラー』は、万人が認めるとてもよく出来た映画である。
にも関わらず、ひとによって評価が分かれる。
それは、この作品が差し出す本質的な部分−−勝ち負けを超えたところに価値を見出すものの見方−−に因るところが大きいのだ。
この映画を甘いと断じて退けるひとは、そもそも映画に大したものを求めていないか、すでに成功を収めてしまったか、計数的な勝利というものに対してオブセッションを抱いている人間なんじゃないかな。
それはそれで可哀相なことではある(まったく余計なお世話だが)。


  *  *  *


この映画が封切られた日、現実のマットの上で悲劇が起きた。


ちくしょう、人生が数字の多寡で決まるなら、誰が命に替えてリングになんか上がるものか。
勝ち負けで片付けられるようなことなら、誰が命と引き替えにステージに上がったりするものか。


  *  *  *


ここで終えておいたほうが話はすんなりまとまるのだが、どうしてもこれだけはと思うことがあるので、付け足しておく。


ROCKIN' ON JAPAN特別号・忌野清志郎 1951-2009を買った。
忌野清志郎1951ー2009 ROCKIN’ON JAPAN特別号


一部(坂本龍一のインタビュー)を除いてすべて読んだ。


俺はラジオ屋としてできる最低限のことはしなければ、と思った。
おかしな言い方だが、最低限のベストは尽くそうと思った。


この特集号を作ったひとも、おそらく雑誌屋(といって失礼なら、出版人とでもロック・ジャーナリストとでも、なんとでも言い換えるが)としてベストを尽くそうとしたのだろう。
それは伝わってくる。


仲井戸麗市氏のインタビューを取るということも、渋谷陽一氏だからこそ為し得たことだろうし、しかるべきオファーを受けてチャボさんが話したことなのだ。俺はそれを受け取るほかない。
私の感覚ではまったく時期尚早だと思うが、意義のある仕事だという声も多い。それは理解できないでもない。


だがひとつだけ、私は渋谷陽一の言葉に引っかかりを覚えている。
それはまえがきではなく、当のチャボのインタビューのリード文のなかにある。


清志郎さんの訃報のあと、初めて仲井戸麗市がステージに立った、5月22日と23日の青山MANDALAでのライブについて書かれてある。
「凄いライブだった」と書いてある。
私は観ることができなかったが、巷間伝え聞くところ、それは間違いなくそうだったのだと思う。
それはもう文句なく、そうだったのだろう。


引っかかるのはそのあとの一行だ。

しかも決してセンチメンタルなものに流れず、あくまでも清志郎の死を正面から受け止めようとする堂々としたものだった。

これが解せない。
心の底から解せない。
なぜ、親友の死を受け止めようとするその行為が、センチメンタルなものであってはいけないのか。


先の文章はこう続く。

そこにいた人のほとんどが感動に打ちのめされたが、ライヴの後泣いている人は少なかった。それほど強いライヴだったのだ。

なぜ、親友の死を全身で受け止めようとする行為を目の当たりにして泣かないことが強いことの証しになるのか。
まったく理解できない。


渋谷氏がセンチメンタルを忌避するのは、日頃の言動からなんとなくわかる。
経営者としてそれは疎むべきメンタリティの一種なのかもしれない。
ひょっとすると、それは表現活動においても、同様に忌避されるべきものだと思っているのかもしれない。
だがこれだけは譲れないことだからはっきりと書いておく。


そんなのは勝手な思いこみだ。
センチメンタルでいったいなにが悪いっていうんだ?


自分のビジネスをその流儀で切り盛りしていきたいってことなら好きにすればいい。
けれど、ひとの感情の動きにまで口を出していいと思ってるなら、それは俺が思うにロックンロールからもっとも遠い発想だ。


結果としてセンチメンタルに陥るのはもちろん、逃げ口上のセンチメンタルだって、俺は全然かまわないと思う。
もしそうやっていつまでも泣いているのが厭になったなら、そのときは自分で泣くのをやめればいい。
それだけのことさ。
ひとに言われて涙を出したり引っ込めたりする必要は、ひとつもない。




いいか、清志郎の死を前にして、泣くなといえるのは清志郎だけだ。




   *  *  *


清志郎が、近年、なぜ「愛と平和」ということをよく口にするようになったか、俺にはずっと謎だった。
いまもほとんど謎だ。
それでも、ヒントのひとつはニック・ロウが言ってくれている。


(What's so funny 'bout) Peace, Love and Understanding?
愛と平和と相互理解でなにがおかしい?


「甘い」とか「センチ」だとか、そんな言葉をひとに投げつけて、自分の身分保障にしてるような手合いにだけは負けないぜ。
負けるものか。

*1:Meets Regional」no.253 / p.80

*2:余談だけれど、同じ号に緊急に組まれたであろう特集として、忌野清志郎を語るという鼎談記事も載っていた。私が密かに敬愛している湯浅学氏も参加している。「清志郎の死は、とてもまだまだ消化できるようなことではない」ということが示されているような会話で、そこに少しほっとした。