●非売品としての大阪〜『プリンセス・トヨトミ』小考


村上春樹矢作俊彦の新作が出れば手に取るが、それ以外に現代ニッポンの小説というものを読まなくなって久しい。
これはもっぱら自分の問題で、要はフィクションに心を遊ばせるというような気持ち−−それを“余裕”といってしまうと、とすこし違う気がして抗いたくなるが−−を失ったということなのだと思う。
そんな具合で、本読みとしては天の邪鬼に堕してしまったような私だが、薦めてくれるひとがあって新刊を読んだ。
万城目学の最新作『プリンセス・トヨトミ』。


先に、マイナスにカウントした部分からいうと、ドラマのシナリオのノヴェライズみたいにシュッとした文体には、引っかかり(摩擦係数?)が少なく、正直、いささか食い足りない気がした。*1
だがそれはそれとして、主な舞台である「谷町・空堀界隈〜大阪城周辺」を描く筆致は活き活きとしていて実に痛快だ。
ディティールまで想像が及ぶ愉しさに溢れているし、大阪の地誌としても齟齬がない。


なによりストーリーが奇想天外。
良質なジュヴナイルロマンといったタッチもあり、とても面白く読んだのだが、ただ単に愉快な物語として消費したのではない。
同時に、なにかしらもう一段深いところで感銘を受けたのでそれについて記しておきたい。


その「一段、深いところ」で感じたものというのはなにか。
この書評が、簡潔に指摘してくれているので引く。

 作者が描いているのは、大阪という街の基層、あるいは大阪人が根底に持っている「精神性」のようなものである。豊臣秀吉以来の大阪の歴史をひもとき、歴史上の人物の名前を巧みに織り込みながら、それらに迫っている。

 熱狂的な阪神ファン通天閣といった、よく知られた「コテコテの大阪」は登場しない。随所に描かれるのは、空堀商店街でタコ焼きを作るおっちゃん、辰野金吾に代表される近代建築、張り巡らされた水系といった、地味ながら等身大の大阪の姿である。

そうなのだ。
この小説が物語全体でもって語っている「大阪的なる心の在りよう」が胸の裡にヒットするのである。


ここしばらくのあいだ、巷間いわれるところの「大阪の(経済的、文化的な)地盤沈下」についてずっと考えていた。
結果、ひとつの仮説を思いついた。
その仮説を説明するひとつのヒントを−−たぶんに恣意的な目線で、ではあるけれど−−この話のなかに見つけた気がする。


さて、大阪に地盤沈下をもたらしたのはなにか。
地下水を汲み上げたせい、という答えを小学校の地理で習った覚えがある。
物理的にはそうだろう。
では、経済的・文化的な地盤沈下の理由はどこにあるか。
「1980年代初頭のマンザイブームに端を発する大阪の笑いの対外輸出、ひいては笑いにまつわるビジネスの興隆が生んだ思い上がり、うぬぼれ、誤解」が、その背景にある。それが私の仮説である。


そもそも大阪の笑いというのは、別によそさんに向けたものではなかった。
内々でクスクスガハガハと笑うて、毎日を滑らかにやりすごしていくために重宝する、せいぜいがそういう種類のものだった。
ところが、ある日、それがカネになるとわかった。
農地が高額で買収された家、牧草地から石油が出た家とよく似た状況が、全大阪を覆った。
そこから、大袈裟にいえば「人心が荒れた」のである。


プリンセス・トヨトミ』に出てくる大阪人は、少女も少年もおばちゃんもおっさんも、品がある。
誰も皆、下町の界隈の人間だが、図々しくはない。
右手をおかしな具合に裏返して横の人間に突きつけ、なんでやねん、とか言ったりしない(私はあのポーズがきらいである。控えめにいっても死ぬほどきらいである。大阪のダークな下町に育ったが、あんな手振りをしたことは生まれてこの方一度もない)。
別に珍しいことではない。
じゃりン子チエ』だってそうである。
チエちゃんの父である、あのテツですら、ガラは悪いが下品なわけではないと思う。


大阪弁や大阪の人間が、それだけで面白いわけでもない。
その場の関係性、不断の努力、とぼけた態度といさめる言葉、一瞬の間合いを感じて放つタイミング、それらが重なって、笑かしよんなあ、となるわけである。
吉本新喜劇を「ギャグ100連発」で輪切りにしたところで、面白さは少しも伝わってないだろう。
笑うには、あの劇中の「間」が必須のはずだ。
もしギャグとやらで伝わっているものがあるとしたら、それはある種の刺激だけである。
刺激は、じきに麻痺して飽きられる。


たとえば、70年代の大阪の小学生などは、毎週土日の午後にお笑いの番組−−吉本新喜劇2〜3本、「モーレツ!!しごき教室」1本、「ヤングおー!おー!」1本、藤山寛美松竹新喜劇1本、プラスアルファの演芸プログラムなどなど−−を浴びるように享受して過ごすことで、「間」を体得していった。
近所づきあいが希薄になり、おもろいおっさんが減ってしまった私のような世代でも、なんとかこんな形で継承されたものはあった。
そういう土壌でこそ培われるものがあった。
そのはずなのに、根こそぎ売り渡してしまった。
言葉にしたらアカンもんまで売っ払ってしまった。
そんな気がして仕方がない。


「大阪のひとってオモシロいんだよね」「なにかギャグやって、やってェ」などという安直なリクエストに、やに下がって喜んでいる場合ではなかった。
持ち前の妙なサービス精神が余計な方向に働いたきらいはあるし、ついつい、デフォルメされた大阪人像を演りすぎたところもある。
だからひとのせいにばかりはできないが、もういい加減、「お笑い」という看板でタダメシ食らってるのはやめにしたほうがいい。
もっと大事なものがあるはずだ。


そういうものの存在に、この物語は気づかせてくれる。


   *  *  *


先祖伝来の「お笑い」に寄っかかる精神構造が機能しなくなっているというこの説については、また機会を改めて。


プリンセス・トヨトミ』は、明日(7/15)発表になる「第141回直木賞」の候補作に挙げられている。
ベテランの大家的存在、中堅の巧手、話題を呼んでいるほぼ同い年の書き手たち(含む女性映画監督)と、なかなか強力なラインアップだ。
頑張ってほしい気もする一方、たとえ榎木大明神ゆかりの直木三十五賞とはいえ、無冠で通すのがこの小説にはふさわしい気もする。


賞とかなんとかとは関係なく薦めておきたかったので、まとまらない説を開陳しながらも、急いで書き連ねた。乱文陳謝。


大阪の、キタでもなくミナミでもない、大川から長堀通の少し下くらいまでのあいだのセントラル大阪の佇まい、特に上町台地界隈が好きなひとは必読の書。


プリンセス・トヨトミ

*1:同時代・同世代のひとのものをあまり読まないので比較のしようがないのだが、そうだ、たとえば川上未映子。好き嫌いは別として、彼女の文章には否応なく“文体が読ませてしまう”、みたいなところがある。